神岡出身の人たちが全国に広めた味
今、船津醤油の製品は全国の多くのお客様に味わっていただく味噌・醤油となりました。しかし、もともとは神岡に住む人のために味噌・醤油を提供していた小さな製造元です。今のように全国に広まったのはなぜでしょうか。
これは、神岡で起きた2つのできごとと大きく関係しています。
神岡鉱山の合理化と流葉国体
神岡鉱山の合理化
神岡鉱山は、亜鉛、鉛、銀などの鉱山でした。今は閉山となりましたが、神岡の歴史は鉱山とともに発展し、1960年頃(昭和35年)の最盛期、神岡の人口は27,000人以上。現在の人口が約9,000人であることを考えれば、当時の神岡がいかに繁栄していたかがわかります。
最盛期の神岡は、いたるところに鉱員住宅が建てられ、夜にもなると住宅がある山の斜面は家の灯りで明るくなるくらい。当時、船津醤油の味噌と醤油は鉱山直営店に売っていましたから、ほとんどの家庭の台所には船津醤油の味噌と醤油があったことだろうと推測できます。
しかし、神岡鉱山は1970年代後半から亜鉛、鉛の需要が少なくなり、1978年(昭和53年)には合理化計画が実施され多くの従業員がリストラされました。合理化時の人口が約16,000人ですから、最盛期から約11,000人もの人が神岡を去り全国にちらばったことになります。
全国には味噌・醤油の製造元は多くあります。でも、どの会社の味噌・醤油が一番おいしいなんてことは決めようがありません。
おいしさの基準は? もしかしたら、子どもの頃から食卓にあり慣れ親しんだ味噌・醤油。これがおいしさの基準なのかもしれません。
全国に散らばった神岡の人の気持ち。
「船津醤油の味噌・醤油が懐かしいなぁ。」
神岡鉱山の閉山はとても悲しい出来事でしたが、船津醤油の味噌・醤油は、神岡出身の人になくてなならない味噌・醤油全国となって全国にを広まっていったのです。
1969年の流葉国体
もうひとつの大きなできごととは、1969年(昭和44年)に開催された冬期国民体育大会の流葉国体です。開催スキー場の流葉スキー場は当時東洋一の言われており、全国的にもとても注目された国体でした。
全国からは多くの選手、役員が神岡に集まりました。当時の神岡にとって流葉国体はまるでオリンピックを開催するような盛り上がり。
「選手、役員の方を神岡に来てよかったと思ってもうらうためにどうすればいいか」
その中のひとつとして、「飛騨の伝統料理をふるまおう」ということになり朴葉味噌が選ばれました。
旅館の食事でだされた朴葉味噌は大好評。朴葉味噌だけでごはんを何杯もおかわりする男子選手も多かったようです。
そして多くの選手がお土産に朴葉味噌を購入してくれました。
その後、地元に帰った選手から朴葉味噌の問い合わせが続き、お土産通販用として朴葉味噌が商品化がされました。
流葉国体をきっかけに商品化されたお土産用朴葉味噌は全国に広まり、多くの方の喜んでいただける船津醤油の看板商品となりました。